九谷焼産地直送 税込5,500円以上のお買い物で送料無料です
電話注文  0761-57-2521 (平日9〜18時)

九谷焼専門店 陶らいふ15周年記念 全商品ポイント5倍
※ポイント付与には会員登録が必要です。

Features 九谷焼の歴史

九谷焼の歴史

九谷焼が誕生したのは江戸時代前期のこと。
加賀藩の支藩である大聖寺藩の領内・九谷村で磁器原料の陶石が発見されたことをきっかけに、前田家が色絵磁器生産に乗り出しました。
その歴史をひもとくと九谷焼という焼き物は、時代ごとに、窯ごとに、さまざまな上絵を描いていることがわかります。

九谷焼(古九谷)誕生

陶石が発見された九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉九谷町)で、全長36メートルの連房式登り窯が築かれました。諸説あるようですが、1655年より九谷村の窯で色絵磁器・九谷焼の生産が始まったとされています。
古九谷には2つの様式があり、青手(あおで)と五彩手(ごさいで)です。

青手とは、油絵のように器全体に絵具(緑、黄、紫の3色または紺青を加えた4色)で塗り埋める様式。

古九谷 青手芭蕉図鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:古九谷 青手芭蕉図鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵)

五彩手とは、九谷五彩(緑、黄、紫、紺青、赤の5色)を使い、花鳥風月などを日本画のように余白を生かして描く様式。

古九谷 青手芭蕉図鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:色絵百花手唐人物図大平鉢 石川県九谷焼美術館蔵)

どちらの様式も中国の技法を取り入れつつも、描かれた上絵は中国の模倣はせれておらず、当時の陶工のオリジナルのデザイン。力強い線描と独創性、高い表現力で見る者を圧倒します。

一度、九谷焼は歴史から姿を消す

1710年頃に、九谷村の窯は突如、閉じられます。その原因は諸説あり定説はありません。
実に稼働したのは50年ほど。この50年の間に作られたものを後の世で古九谷と呼ばれるようになりました。
そして現在、九谷焼と呼ばれているものは、江戸後期の再興九谷以降に作られたものを指します。

加賀藩で色絵磁器の生産が再開

九谷村の窯が閉じられて100年ほどたった江戸時代後期になり、加賀藩の領地内に築かれた春日山窯で色絵磁器の生産が再び始まりました。
京都の名工・青木木米が招かれ、呉須赤絵写しなど京焼風の磁器を生産。

春日山窯 赤絵花鳥文大皿 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:春日山窯 赤絵花鳥文大皿 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵)
春日山窯で生産された赤絵の器。

その後、木米は京に戻りますが、加賀藩に残った木米の門下・本多貞吉が若杉窯を開き、そこから多くの名工を排出しました。
この本田貞吉は、花坂陶石を発見した人物。
過去に陶石が発見された九谷村の山奥とは違い、花坂は小松市郊外と好立地。
今も採掘されていて、現代の九谷焼を支えています。

若杉窯 染付霊獣文平鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:若杉窯 染付霊獣文平鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵)

若杉窯では、色絵磁器も作られてはいましたが窯入れの回数が少なくてすむ染付(藍色のみの表現)の器が多かったようです。

真の意味で九谷焼復活! 吉田屋窯

九谷焼復活のキーマンとされるのが、大聖寺藩の豪商・吉田屋伝右衛門です。
私財を投げ打ち、借金までして、ついに九谷村で窯を築き、吉田屋窯を開きます。
九谷村で作られた色絵磁器だから九谷焼と名乗れるというのが当時の考え。
そのため吉田屋窯が真の意味で九谷焼を復活させたと言われています。

吉田屋窯 百合図平鉢 石川県九谷焼美術館蔵(写真:吉田屋窯 百合図平鉢 石川県九谷焼美術館蔵)

吉田屋の上絵も魅力的。
古九谷の青手様式は受け継ぐも、そのデザインにおいて古九谷の模倣はせず、全くのオリジナルを追求。
吉田屋の器は、当時文化の中心だった京都で古九谷に負けず劣らず秀逸と高く評価されていたそう。

評判も良く、人気だった吉田屋窯ですが、九谷焼の窯は2年ほどで閉じられ、吉田屋窯は山代へ移ります。
山奥にあった九谷村では、利便性を考えるとなかなか採算があわず、厳しかったと考えられます。
しかし九谷焼再興の情熱は周知の事実であり、また作品の秀逸さもあり、山代に移っても吉田屋窯で生産された器は、九谷焼と呼ばれ続けました。

赤絵細描が大成! 宮本屋窯

人気を博した吉田屋窯ですが、伝右衛門やその息子の死、借金荷重が原因で、開窯して7年で焼きどめとなります。
その後は、吉田屋窯で番頭をしていた人物に窯は譲られ、宮本屋窯と名を改め稼働します。

宮本屋窯 赤絵福寿字入大深鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:宮本屋窯 赤絵福寿字入大深鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵)

そんな宮本屋窯で大成したのが赤絵細描という今も受け継がれる人気の技法です。
他の地域でも赤絵は描かれていましたが、宮本屋窯の赤絵は驚くほど緻密です。
それは他の追随を許さない、そんな気概を感じるほど。
吉田屋窯が古九谷を模倣しなかったように、宮本屋窯も他では真似できない赤絵細描という技法、様式を生み出しました。

金襴手が九谷焼に根付く 九谷本窯

その後、廃絶状態となった宮本屋窯を受け継いだのが九谷本窯。江戸時代終盤の頃です。
指導者として京都から招いた永楽和全が、九谷焼に金襴手の技法を持ち込み、根付かせました。

永楽和全 金襴手鳳凰文鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:永楽和全 金襴手鳳凰文鉢 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵)

金襴手は現代の九谷焼でも用いられる技法で、赤で塗り埋めた器に金彩のみで描くことで、煌びやかで艶やかな表現が叶います。

明治に入り九谷庄三が台頭 欧州で「ジャパンクタニ」

明治に入ると、彩色金襴手(さいしょくきんらんで)を開発した九谷庄三が、欧州で巻き起こった九谷焼のブーム「ジャパンクタニ」を牽引します。
彩色金襴手は、古九谷や吉田屋、赤絵細描、金襴手といった歴代のありとあらゆる加飾や画風・様式を取り入れた豪華絢爛さが魅力。
さらに彩色金襴手で、九谷庄三は、九谷五彩と呼ばれる緑・黄・紫・紺青・赤という5色の和絵具に加えて、西洋絵具による中間色も採用し、その表現の幅を広げました。

九谷庄三 龍花卉文農耕図盤 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵(写真:九谷庄三 龍花卉文農耕図盤 能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵)

九谷焼作家が重要無形文化財保持者に

時代は移り変わり、平成に入ると2人の名工が独自の技法により、重要無形文化財保持者になります。
三代徳田八十吉が「彩釉磁器(さいゆうじき)」で、また吉田美統が「釉裏金彩」で認定。美しい表現で魅了しています。

三代 徳田八十吉 5号壺 耀彩(写真:三代 徳田八十吉 5号壺 耀彩)

吉田美統 13号飾皿・釉裏金彩泰山木文(写真:吉田美統 13号飾皿・釉裏金彩泰山木文)

そして現在、多くの作家や窯元が活躍しており、さまざまな九谷焼を楽しむことができます。